ネクタイ締めて陶芸する人「川喜田半泥子」に憧れる

日経新聞2016年6月26日美の美より
ネクタイ姿で作陶する川喜田半泥子 2016年6月26日 日経新聞 美の美 より

先月の日経新聞、美と美に特集された
川喜田半泥子(かわきたはんでいし)
何年も前に、この写真を見て、染裕は憧れていました。
自分もネクタイ締めて藍染する人になりたいなぁ。と

紺屋(藍染屋)のことわざにも、
「紺屋の白袴」というのがあって、いろいろと言われてますが
・忙しくて自分の着る物を染める余裕がない
・白い袴を汚さない程の達人
染裕解釈だと後の方がよりわかる感じがします。

白袴をネクタイに変えて例えると、気持ちが違うんですよね
さすがにこの時期はクールビズでネクタイは外しますが。

紙面のコトバ、少しご紹介します。

頭取の土遊び
ただ無心に土をいじり、ろくろを廻した。割れても欠けてもいいじゃないか。奔放に土と遊んだ銀行頭取、いやはや「でかしたもの」をつくったぞ。

泥むと書いて、なずむと読む。いろいろな意味があるが、ここでは没頭するの意。半ば泥みて半ば泥まず。没頭し、どろんこになりながら、なお冷静に自己を見つめなさい。 人生の後半、勤めのある日は朝晩、勤めがなければ日がな一日、半泥子は泥いじりに泥んだ。泥んで泥んで、泥む自分からも離れて、、、

ろくろを教わるのが46歳、陶芸に本格的に取り組むのはその10年後の事。遅咲きのアマチュア恐るべし。形式ばった事を嫌い、土の自然にまかせあるがまま。

「無茶苦茶につくる茶碗の無茶法師
それで飲む人茶茶無茶苦茶」

半泥子は茶の湯をたしなみ、茶室も造ったが、茶人転じて無茶人となった。形式ばった茶を嫌う無茶人は、好きなテニスを終えたあとそのままの格好で茶をたてた。

魯山人と9時間半、お互いにあごがだるくなるまで、しゃべり通した。天狗と無茶法師は以下の点で一致する。作品のよしあしは技術より人格の現れだ。昔のイイ焼き物は土も釉薬も自然の産物だから自然の味が出る。焼き物は日本が世界一。玉、古銭に興味無なし。茶道はイイものだが、誤り伝える「茶人型」はイヤ–などなど。

僕も思います。作品は陶芸でも染織でも絵画でも、人格の現れだと。
そして小津監督のこんな言葉を思い出しました。
「人間はすこしくらい品行は悪くてもよいが、品性は良くなければいけないよ。」

頭領の土遊び 川喜田半泥子
日経新聞2016年6月26日
美の美 より

叶わない願いですが、魯山人と川喜田半泥子と染裕で飲食いしながら「藍染について」談義してみたい。
きっと鼻でわらって会話してもらえないか、
ついてこれるか?って潰れるまで飲まされるかな。

座右の銘とした「泥多仏大」
泥多ければ仏大なり。大仏様は土で型をつくり、そのまわりにも土の壁を築き、隙間にとけた銅を流し込んで成形する。泥が多いほど仏様が大きくなる、人間もまた同じじゃないか。

最後に、翌週の日経『美の美」に紹介されていた一文で締めます

「真の芸術と真の事業とは、その美、その創作、その努力において相一致し、その尊厳さと強さにおいて相譲らざるものである

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